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ジョニー・ハーバートの走り


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1987年イギリスF3選手権でチャンピオン獲得、この年9月にはF1ベネトンチームのマネージャーであったピーター・コリンズからオファーを受け、初めてF1マシンをドライブ、当時ベネトンのレギュラードライバーだったティエリー・ブーツェンのタイムを上回り注目される。
1988年国際F3000へステップアップ、ジョーダンチームに所属。開幕戦デビューウィンを飾るなど驚異的な速さを見せ付け、翌年からのF1ベネトンとの契約を結んだ直後、ブランズハッチでのレース中の多重クラッシュで足の複雑骨折をしてしまう。この骨折の影響で、今でもハーバートの右足首は曲がらないままであり、アクセルワークは膝の屈伸で行っている。

1989年F1開幕戦ブラジルGPには、完治しない足のままベネトンで参戦。松葉杖を使わないと歩けない状況の中、デビュー戦でトップ争いを繰り広げながら4位という派手なデビューを果たす。「ジム・クラークの再来!?」と周囲は沸き立ち、加えてこの頃のハーバートは言動が傲慢であり、新人らしからぬ発言も相まって注目を浴びる。しかしその後は足の経過も思わしくなく、またチーム内の政治的抗争に巻き込まれてしまい、第7戦フランスGPからシートを失う。余談だが、その後のシートに座ったエマニュエル・ピロは、ハーバートの成績を上回れなかった。その後ティレルからのオファー(シーズン途中からティレルのレギュラーになったジャン・アレジが、元々参戦していて、チャンピオンを争っていた国際F3000に参戦する際の代役)で数レースを走り、翌年全日本F3000選手権へ出場する。

その後は全日本F3000や全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に参戦しながら、ティレルやロータスでF1にスポット参戦する。また、1991年のル・マン24時間レースにフォルカー・ヴァイドラー、ベルトラン・ガショーとともにマツダから参戦、ロータリーエンジンによる唯一の優勝をアンカードライバーとして勝ち取る。尚、脱水症状が酷く表彰台には立てなかった。

1991年のルマン後に富士スピードウェイで開催された全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)第3戦にマツダ787Bで参戦したが、日産の和田孝夫選手のドライブするマシンが1コーナーで横転炎上し、和田選手が炎上するマシンから脱出できないところを見て、参加者の中で唯一レースをやめて救出に向かったスポーツマンシップの持ち主でもある。この頃にはF1デビュー当時の生意気な部分は影を潜め、明るいキャラクターとファンサービスを大事にするドライバーとして認知され始める。「今日の調子は?」とプレスに問われると、ニューヨークのブラックのノリで「オレたちゃいつでもOKよ!」と言い、側にいたデイモン・ヒルから「若いやつの発言だからご勘弁を」とフォローされるほどであった。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年03月06日 19:07に投稿されたエントリーのページです。

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